このブログの読み解き記事って何か意味あんの? その2
http://flsjny.hatenablog.jp/entry/2014/04/04/231732の続き。
『このブログの読み解き記事というのは、制作側の意図を読むものじゃなくて、作品内の情報だけで読み取れるコンセプトを書いていくというスタンス』というあたりまで書いた。
そこから、そもそもどうして僕は読み解きをやっているのだろうというところで前回は終わったかと思う。こう結論付けて。
好きになったものに自分なりに意味を見出したいからだ、と。
ハイ、ここから自分語り。
数年前のこと、ふと自分の本棚や手持ちのオタ系メディアを確認してみたところ、最近買ったものばかりだということに気付いた。中学生の時に読んでいた漫画や高校生の時に読んでいたラノベの大半がなくなっていた。飽きた端から売ったからだ。
その時に、わかった。
自分の好きだと思っていたものがただ単に一時的なものだったことを。
その場その場の感情だけで好きになって、しかもなぜ好きになったのかわからないまま、次々に新しいものに飛びついていたことを。
新しい刺激を受けるために新しいものに飛びついてただ消費していただけだということ。
自分が好きになったものの説明すらできないこと。
これらの事実を知ったときはショックだった。
なぜなら今まで僕が楽しんでいた行為はただの『一過性の消費』でしかないということだから。
飽きるのは仕方ないと思う。いつまでも同じものに接していたって何にもならないし、感情や好みは変わっていくのが自然だから。でも仮にも好きだったものを、飽きたら次、飽きたら次と、使い捨ての消耗品みたいな扱いをしていていいのかと疑問を抱いた。ただの一過性のものでなく受けたものをどうにかして自分のものにできないか。そして、拙くてもいいから何が好きだったのかを説明できるようにならないか。そう思った。
それから僕が始めたことというのは、読んだ見た聞いたものに関して少しでもいいから感想を書くということだった。当時はメモ帳に気になったことを書き留めて、あとでそれを見返して専用のメモ帳にまとめるということをやっていた。特にどこに公開するという目的もなく。今と違ってだいぶ暇だったから。
それが、このブログでやっているような読み解きや感想記事のルーツだ。
感想を書くことが、自分が抱いた虚しさの解決になったかどうかはわからないけど、とりあえずは今の今まで続いているし、文章を書くことによって、自分の考えや感情が確固としたものになった実感はある。
だから、このブログの読み解き記事というのは、僕が好きになったものに対して自分なりに意味を見出すためのアプローチであり、自分の興味が向いたものと感情の動きの記録であり、ファン活動などという殊勝な活動には程遠く、どこまで行っても自分本位な行為に過ぎない。前回も言ったけど、結構傲慢だと思う。そういうスタンスだと断ってはいるけど他人様の作ったものに対して訳知り顔で論じて、『解釈は作品内のみで』というお題目を掲げて、挙句の果てに自分のフィルタでゆがめた『作品のテーマ』を所構わず吹聴しているわけだから。自分勝手だ。それくらいの自覚はある。
というわけで、と言って大目に見てもらえるかどうかはわからないけど、その文章を書く際に作品に対してのせめてものエクスキューズとなるような自分ルールを設定している。
・悪意のある記事を書かない。
・自分の主張が正しいものではないと自覚する。
・読み手に伝わらないことを前提としてわかりやすく書く。
以上。
このブログの記事も基本的にはこの方針で書いていく予定。