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メモ用紙を貼っ付けるコルクボードです。主に感想・雑文用。感想系はネタバレあるんで注意。

空想レイゾンズデイト(人比良)雑感

 文踊社から出ている、単行本サイズのノベルです。
 タイトルのレイゾンズデイトはレゾンデートルと言ったほうが通りがいいかと思います。
 レイゾンズデイト。
 存在理由。
 その言葉通り、このノベルに登場するキャラクターは他者と自分との関係の中での存在理由に悩みます。悩んだり向き合ったりしたすえに、飛び降りたり飛び降りなかったりして、死んだり死ななかったりする話です。
 あらすじを公式から転載します。

 

逃げるように全寮制の女学院へと転校してきた主人公、星野刻子(ほしのときこ)。
刻子はそこで、不器用にしか生きられない少女たちと出逢う。
歪な関係で成り立つお茶会に隠された、墜落、という秘密。
果たしてそれは、事故か、自殺か、殺人か。それとも他の何かなのか。
胸の痛みが暴かれるとき、彼女たちの蜜月も終わりを迎える----

http://www.bunyosha.com/book/post-6.php 文踊社の商品ページから転載

 


 殺人という単語が出てきますので、『ジャンル:ミステリ』っぽく見えます。たしかに事件は起こりますし、ラストでは犯人っぽい人物による自白があります。しかし、話の筋は、何らかのトリックが暴かれて、わかりやすい犯人をつるし上げるという本格ミステリとは似ても似つきません。手がかりのようなものの描写は皆無に等しいですし、事件の解決はそれぞれのキャラクターが自分の内面や他者と向き合うことで解決に向かいます。少なくともミステリ的な謎解き要素を期待して読むと肩すかしを食らうでしょう。
 では、どういう話なのでしょうか?
 ひと言でいえば、コミュ障少女たちの更生物語といったところです。
 人間関係を築くことが苦手だったり、他人依存をやめられなかったり、傷つけたり傷つけられたりすることでしか人と接することができなかったり。
 そんな少女たちが、過去に起こった事件を通して自分と向き合っていく話です。
 基本的に暗くて重い話です。
 最高ですね。
 迷わず買いです(押し売り)。
 それと、女の子いっぱいだし百合的に言えばどうか? ですが。
 結論から言えば、女の子同士の恋愛感情は描写されます。男性も出てきません(男性教諭に二、三言セリフがあるくらいです)。
 ただし、その恋愛感情は、過去に起こった事件内で描かれます。過去の話のみで、です。というわけでキャラクター間の恋愛模様が描写されることもありません。本作の大半を占めるのは、事件をもとにしたキャラクターたちの成長劇なので、間違っても恋の駆け引きや惚れた腫れたの恋愛展開があるわけではないのです。この点も、過度に期待して読むと肩すかしを食らうかもしれません。しかし、百合という言葉を、恋愛だけにとどめず、少女同士のなんらかの特別な絆であると認識している方は、ほんのちょっと期待してもいいかもしれません。
 最後に、体裁に関して。
 ソフトカバー。総ページ数365ページ。挿絵はありません。章間に、イラスト担当の方による1p漫画があります。それが挿絵の代わりなんでしょう。
 生と死を取り扱った重ったるい話が好みの方、ギスギスした人間関係に萌える方、最近病んだキャラクター少なくてなんか物足りないとぼやく方におススメの一冊。

 以下、ネタバレ感想です。

 

 

 疑問に対する答えは、作中であらかた提示されるので、特に語ることもありませんが、考えをまとめるためにつらつらと書いていきます。

 要点を絞るようにして見ていったので、色々と端折っています。偏った感想となっているかもしれません。
 重苦しい雰囲気も読みやすい文体もかなり好みだったので、いい感じに忘れたころにまた読み返してみようかと思います。

 

七里ヶ浜明未

 

「わたしにとって学院の外に出る、ということはね。突き落とされる、という意味なのさ。江ノ島女学院という高い高い塀から、外に向かって突き落とされる。そうすれば、あとは落ちて死ぬだけだ」(p.244)

 

 七里ヶ浜明未のセリフです。
 華の女子高生活なのに、ぜんっぜん楽しくなさそうです。
 終身刑くらって刑務所にぶち込まれている受刑者のような言いぐさです。
 このセリフの後には、だから未来が怖い、と後に続きます。
 また、明未は、爪はじき者が居てもいい場所としてお茶会を作った、とも言っています。
いてもいい場所、自分がいることが肯定される場所というと、非常に心地よく聞こえますが、しかし、お茶会で行われていた行為は傷の舐め合いでしかありません。事実、明美は、冬花と、雪乃と、春流と、肌を舐め合う描写がそれぞれあります。

 

「触れるのはわかりやすくていいよね。セックスフレンドはセックスしたら成立するけど、友達は何をもって友達と言えばいいのかわからない。そういう形のなさに堪えられないから、わかりやすい方に流れるのさ」(p.60)

 

 明未は極端に分析的で、冷笑的で、自罰的で、そして弱虫です。
 無理もないことでしょう。
 そんな人間性が育まれた背景については、幼少のころから全寮制の学校に閉じ込められているという設定が、説得力増加にひと役買っています。
 学外と部室外、それぞれに壁を作って、二重に引きこもっている――あるいは引きこもらざるを得なかった――人間が七里ヶ浜明未という少女です。シニカルな態度を崩さず、なかなか本音を言わない点をみると、自分と他者の間にもう一枚壁を作り三重に引きこもっていると言えるのかもしれません。
 明未は恐怖に支配されています。
 漠然とした未来(『外』と言い換えてもいい)への恐怖と、未来(『外』)に立ち向かうだけの動機がないことへの恐怖と、自分の感情が自分でもわからない恐怖と、ろくでもない関係しか築けない恐怖と、誰からも愛されずまた誰をも愛せないのではないかという恐怖。ありとあらゆる恐怖によって、明未の行動はがんじがらめに縛られています。一人ではどこにも行けないほど強力に。
 では、明未はそれらの恐怖へどう対処したのでしょうか?
 刻子が来るまでは、逃避することによって、です。
 お茶会というぬるま湯に浸かることでひたすらに未来から目を背け、『外』にでないよう頑なにひきこもり、極端な行為によって不確かさを排除した関係をお茶会内で築きます。
環境へ依存して盲目的になることで対処しようとしたわけです。
 冬花への依存もまたその範疇であり、過去の事件においてその恐怖を見抜かれて、良いように利用される原因となったのです。
 冬花飛び降り事件後も、明未につきまとう恐怖はもちろん解消されていません。それらの恐怖が、明未をむしばむ狂気であり、死の側へ引っ張り続ける要因となっています。
 では、明未が生きていくには何が必要なのか、という問いに対する答えはエピローグにて明らかになります。

 

星野刻子

 

 ぶっちゃけ、この子、人付き合い苦手じゃないですよね。
 自分の辛い過去と向き合えるし、ラストでは未来に向けて力強い選択ができるのですから。
 錯乱しているからと言って、相手を見据えて挑発ができるのなんてコミュ障の芸当じゃないですよ。
 親とどう付き合えばいいのかわからないってのは思春期にありがちな、ほら、なんかそういうのじゃないんですか。違うかな? 違うかー。茜に「私失礼なことしてない?」とか空気読めないこと聞いちゃうような、彼我の距離感を計りかねるという一面はあるにせよ、それはただ単に友達を作る機会に恵まれなかったというだけに思えました。それをコミュ障というんだよ、と言われればそれまでですが。
 本作中にある通り、人間関係とは積み重ねで、恵まれない機会によってコミュ障が育まれるのであればそうなのかもしれません。
 さて、そんな主人公が抱える心の傷がこちら。

 

「わたしはね、トクベツなものを作れるほどに強くないの。耐えられないくらいに、弱いの。わたしは、そんな『わたし』が嫌い。だから、ごめんね」(p.300)

 

 星野刻子がちょろった、瑞穂愛理の言葉です。
 選んだもの以外を切り捨てないといけないから特別を作ることが怖い、と愛理は言います。だから、刻子に好意を寄せられたとわかった瞬間に愛理は飛び降り自殺をします。もっとも、愛理がそれだけを理由に、死を選んだのかどうかは判然としません。
 事実、このセリフの直前に親子関係に踏み込んだ会話があります。父と母のどちらかを選ぶか? というあたりです。明言はされていませんが、愛理は家庭環境に不和を抱えていたのかもしれませんね。親の離婚などの。
 真相はわかりません。
 ただひとつ言えることは、愛里のヒトオシとなったのは自分のせいだ、と刻子が頑なに信じていることです。他にどんな理由があったかわからないとはいえ、告白して無理やり唇奪った直後に飛び降りられたらそう思いこむのも無理はないでしょう。刻子が愛理の背中をじかに手で押したわけではありませんが、作中のセリフによると言葉でだって人の背中を押すことはできるのです。
 そして刻子は横浜を去り、江ノ島女学院での事件を経て、ある一つの答えにたどり着きます。

 

他人を生きる理由にせず、他人を死ぬ理由にせず、強く生きる。
それが江ノ島女学院でのいざこざを経て得た、私の答えであり私の望みだった。(p.356)

 

 強いですね。
 似たような事件を経た七里ヶ浜明未とは違い、ちゃんと未来と向き合うことができています。もちろんその理由として、明未とは違い外の世界に慣れ親しんでいるからということでもあるのでしょう。
 しかし、大切な人を失ったという傷を両人とも一緒です。
 人間関係を築くのが苦手なのも一緒。
 かけがえのない人を殺したのは自分だ、と自覚しているのも一緒。
 七里ヶ浜明未と鏡写しのような立ち位置にある、本作の主人公・星野刻子はどうして前を向けたのでしょうか?
 思うに、それは、刻子が明美よりもほんの少しだけ、自分の感情におおらかで優しかったからではないでしょうか。
 明未は、自分の感情を突き詰めて分析していったところ、冬花に抱いていた感情は依存心だったと断言しています。
 対して刻子は、瑞穂愛理に対して抱いていた感情がまぎれもない愛だったと言い切っています。

 

「……君は、瑞穂愛理のことが、好きだった?」
「ええ」
(中略)
私は彼女のことが好きだった。特別な存在になりたかった。
けれど、なれなかった。
失敗して、
失恋したのだ。
そのことを今は認められる。(p.213)

 

 胸の痛みを引きずったまま生きようとする強さを、愛理の死と江ノ島女学院で起こった事件によって得たということでしょう。
 そんな刻子だからこそ、似たような胸の痛みを抱える明未へと手を差し伸べることができたのです。


友達になること


「全部終わったらさ、明未と友達になってやってよ。前も言ったけど。セフレでも恋人でも敵でも味方でもなく、ただの友達に。きっとどうしようもないものをどうにかするにはそれしかないんだろうさ」(p.273)

 

 エピローグ。
 刻子は屋上にて明未に語りかけます。
 それはもちろん一種の賭けだったわけです。
 間違えれば、明未は刻子に歩み寄ることなく飛び降りるはずだったのですから。
 最終的に明未は刻子の手をとります。
 友達になることを了承した証として、です。
 刻子にとって、それは過去の過ちを繰り返さないよう健全な人間関係を築いていこうとする意思表示です。
 明未にとって、それはすべてが極端で明確なまでにわかりやすい指標を求めることからの脱却です(その他もろもろ明未が抱える恐怖がこのエピローグで解消されますが、それは本文中に書いてあるので省略します)。
 どうして友達なのか、ですが。
 セフレならセックスすればいいですし、恋人ならキスすればいいですし、敵なら殴ればいいですし、味方ならば共通の敵を倒せばいいのです。
 しかし、2人が選んだのはそのいずれの関係でもありません。
 そういった線引きが明確な関係ではなく、友達というあやふやで不確かな、しかしプラスの関係を築いていこうというところに落ち着いたのです。その事実は、彼女たちが、その極端な思考から勇気を振り絞って脱出しようとした第一歩であるように感じられました。
 不確かであるのは、外も、未来も、人間関係も、同じです。
 それら慣れないものに恐怖を感じるのも無理からぬことではないでしょうか。
 

 「二人なら、きっとなんとかなるわ。茜だっている。三人で、駅の近くでお茶をしましょう。白玉が美味しい甘味屋があるそうよ」(p.361)

 

 そうして励まし合いながら、未来や外の世界へ希望を感じ生きていくのでしょうね、彼女たちは。