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メモ用紙を貼っ付けるコルクボードです。主に感想・雑文用。感想系はネタバレあるんで注意。

ノイタミナアニメ『C』ネタバレ読解

 ネタバレなし紹介は以前に書いたので

http://flsjny.hatenablog.jp/entry/2014/04/20/193443

 しょっぱなからネタバレ

 経済学説的にどうだこうだ書くのはあまり意味がないと思うので(そして例によってそんな知識はない)できるだけ経済的観点は除いたのでその手の知識は持っていなくても読めると思う。

 

 

 以前の記事で、このアニメのことを「経済をテーマにした人生哲学アニメ」書いたのはワケがある。それは、このアニメのクライマックスにおける重要な決断が、主人公である公麿の考え方の変化によってもたらされているからである。

 というわけでこの記事では、最初に公麿の変遷をざっくりと追って行きつつ、その後で周囲からどんな影響を受けたのか、そしてどういった決断をしたのかという順序で書いていく。

 公麿の変化で特に注意して見るべき軸は2つある。

 それは、

 

・自分と他者について

・今と未来について

 

 である。

 横軸の人間関係のつながりと縦軸の時間の経過だとイメージするとわかりやすいかもしれない。

 スタート地点での公麿のそれらに対する考え方はだいたい以下のとおり。

 

・お金とは自分のために使うもの。

・安定を手に入れて、つつがなく暮らして行きたい。

 

 両方ともが自分のみの問題であり、公麿の考え方に他人は含まれていない。つまり公麿は、序盤においては自分のことしか考えていないのだ。それは、バイトを掛け持ちしても他をかえりみるだけの余裕がないからだったり、作中で明かされるように親が金絡みでトラブルを抱えていたという認識が公麿にあったからだったりする。

 後に金融街に誘われることによって、周囲の影響を受け、この考え自体が変わっていくのだが、その中でも最初の転機となった言葉がある。

 

逃げるな。自分自身の可能性を見つめてみろ。

誰にでも生まれてきた意味がある。(2話)

 

 この言葉は初勝利後、現実世界に戻った公麿に、三國壮一郎が投げかけたものだ。

 これ以降、公麿は、自分だけにこだわらず周囲にも目を向けるようになっていく。

 余裕のなかった生活が過去のものとなったからであり、また、自分の生き方に多大な影響を及ぼしていた父親への理解が深まったからでもある。そしてこの言葉が、公麿の成長につながっていくことになるのだ。

 

「自分だけ」から「他人も」へ

 

金ってものは、自分ではない何かのために使ってこそ尊いと、俺は思う。

君には無いのか? その何かが。

ないならば探せばいい。だが、見つかったとしても、その時に使うべき金がないなら始まらない。

ディールを続けろ。金を稼げ。それを何かのために使え。君が金を使えば誰かを潤す。ため込んでいれば、幸せになのは君だけだ。ささやかな幸せは君を幸せにしても、周りに大きな幸せを振りまくことはできない。

(3話)

 

 迷いながらも、壮一郎の言葉通り金融街でディールを行う公麿だったが、講師である江原とのディールに勝利してあることに気づく。自分がディールに勝利すると、誰かが持ち得た未来を奪っているということに気づくのである。

 この事実を現実世界で目の当たりにして公麿は悩む。

 

「人をひどい目に合わせるのも、自分がひどい目に合うのも、どっちも嫌だよ」

「でも生きていくということは、所詮誰からも奪ったり奪われたりしていくようなものだからね」(4話)

 

 ディールに勝てば誰かが傷つく。負ければ自分が傷つく。しかしディールは避けられない。公麿は自分と他者との痛み分けのバランス配分に悩んだことになる。そして最終的に出した決断が、『自分の勝ち負けをコントロールする』である。

 

これ以上、周りの人を不幸にしたくないんだ(4話)

 

 つまり、相手へのダメージを最小限にコントロールできるように勝つことだ。自分が周りに与える影響を自覚することにより、公麿の関心は、「自分だけ」から「他者への関心」へと変わっていったのである。

 

『今』を大切にするのか、『未来』を大切にするのか

 

 だいたい6話前後。

 さて、この辺りからもう一つの思想の対立軸が表れてくる。それは、この記事の冒頭で述べたとおり、『今』と『未来』である。

 この、今と未来という対立軸は、作中でキャラクターが信念として背負うことによって、強烈に主張されるような構図になっている。さっさと定義してしまえば『今』を担うキャラクターが三國壮一郎で、『未来』を担うキャラクターが宣野座功である。

 

可能性が失われた未来しか残らないなら、現在がある意味もない。(6話)

 

 宣野座功は未来を重視する。それは自身のボランティア活動で、子供たちの未来が消えた瞬間を目の当たりにしているからだ。

 公麿は、宣野座とのディール中に、一旦は、

 

未来よりも何よりも、俺はとにかく、身近なものを失うのが怖い。(6話)

 

 未来重視に対して懐疑的な立場をとるが、未来を食いつぶしてまで今を守ろうとする壮一郎の姿勢にもまた、疑いの眼差しをむける。

 そうして今と未来との間で揺れ動き、悩む。

 しかし、三國が行った行為の代償が徐々に表面化していくにつれ、決定的に反対の態度をとるのである。

 

(ミダスマネーを燃やしながら)

俺はこんなものに、人の未来を奪う価値があるとは思えない。紙だぜ? こんなに簡単に燃える。

俺は、やっぱりこんなものより未来がほしい。未来のほうが信じられる。(8話)

 

 ミダスマネーの語源は、おそらくギリシャ神話からだろう。

 手に触れるものをすべて黄金に変える力を与えられた王の名前がミダスだという。つまり、湯水のごとく金地金を作れるわけで、インフレの申し子のような存在だ。そして、ミダスマネーが作中で果たす役割を考えると、恐ろしいほどピッタリのネーミングだと思う。

 ともかく公麿は、ミダスマネーを濫用して今を重視する壮一郎とは反対の立場をとる。

 

じゃあ、あんたが言ってたことは何? 本当に弱い者たちを守るってことは、遠い未来の人たちを犠牲にして、今を生きる人を救うってこと? なんかおかしくない?! 宣野座が言ってたことって強いものの論理なのかな? なんか違う気がするんだけど! (中略)未来のために今があるんだろ!(8話)

 

 それでは、公麿は宣野座のように、未来を重視するという思想に落ち着いたのだろうか。

いや、実は、違う。一見するとそういう風にも見えるが、周囲への関わり方を考えていくと、ただ単に未来を重視したわけではないことが次第にわかってくる。

 それには、本作の核(と言っていい存在)であり、そしてディールになくてはならないアセットについて触れなければならない。

 

アセット

 

 アセットはアントレの未来を体現したもの、だとは作中で繰り返し言われている通り。

 わかりやすい。

 つまり、もうこれは「暗喩です」と制作側が声高に主張しているようなもので、そのまま受け止めながらアセットがどういう風に扱われているかを見ていけばいい。

 大雑把にまとめると、公麿はアセットである真朱に対して次のように接した。

 

・初めてのディールで助けようとした。(2話)

・食事を与え、楽しさを教えた。(6話)

・大事な人へのキス。(9話)

・堀井戦にて真朱の身を案じた。(10話)

 

 まとめると公麿は真朱のことを、まるで人間であるかのように、信頼を置いて接している。アントレとアセットの関係は作中で出てくる通り、使役し、使役される関係で、公麿のように接するアントレは変わり者だそうだ。アントレとアセットの語源は、起業家と資産だから、そういう関係だと想像すれば納得できる。

 だから、というか、当然の結果だが、真朱は公麿に心を開くのである。7話では「この人と一緒にいて、いやじゃない」というセリフがあるし、そして11話において、真朱は、総一郎のアセット「Q」に対してこんなことを言う。

 

「わかる?! あたしたちアセットってアントレの未来なんだって。あたしは公麿のために戦ってた。でも公麿はあたしのために戦っているって言うの! それっておかしくない?」

「どうでもいいのです」

「そんなことない! なんかちょっと安心するし、それが本当なんだよ!(11話)

 

 これは、直前の堀井戦での公麿が言った言葉を受けてのセリフだ。

 

お前が未来なんだよ。未来がおまえなんだよ。ずっとお前を見てたから、目の前にいるお前だけは絶対守りたいって思ったよ。俺の知らない未来のお前も守らなきゃ、本当じゃないって、わかったんだ。(10話)

 

 真朱が公麿のことを守ろうとしたように、公麿もまた真朱のことを守ろうとした。

 この事実は何を表現しているのだろうか。

 それは、アセットが「アントレの未来を体現したもの」「行き場のない未来が姿を変えたもの」であるというところにカギがある。

 もう一度アセットの本質に目を向けてみよう。アセットの真相に迫ったやり取りが9話にある。

 公麿の父が真朱とそっくりのアセットを持っていたことが判明したのちの、サトウと公麿の会話だ。

 

「未来が消えて行き場を失った命が、同じように行き場のない夢に姿を変えて、私たちの前に現れる。それが」

「アセット……」(9話)

 

 公麿(=アントレ)は真朱(=アントレの未来)を信頼して接した。また、食事(=楽しみ)を与えたりもし、そして、最後まで真朱を守ろうとした。

 言い換えるとこうだ。

 つまり、公麿は、自身の未来を信頼し、未来に楽しみを与え、そして、大切に扱ったのである。その結果、真朱も公麿のことを信頼するようになり、公麿に自信の持てるすべての力を貸すようになる。

 公麿は、作中でアセットに恵まれたアントレだと言われている。

 しかし、それは、公麿自身が未来を大切にした結果、その未来が今に影響を及ぼして公麿の力になっているということだ。

 これは未来への投資、すなわち自己投資の形をわかりやすく可視化した関係である。

 この公麿と真朱の関係から読み取れることは、未来や今といった概念は決して独立したものではなく、相互に影響を及ぼし合って高め合えるものだということだ。

 今のために未来があるわけではなく、未来のために今があるわけでもない。

 『今』があるから『未来』も力を持ち、『未来』があるから『今』も力を持つのだ。

 そして、それがそのまま、公麿の最終決断へとつながっていくことになる。

 

何が間違っていて、何が正しいのか。

 

 11話において、公麿が下した最終的な決断とは、ミダスマネーを製造していた輪転機を逆回転させることだった。

 現実世界に影響を及ぼしていたミダスマネーを消し去るという選択だ。

 結局のところ、公麿がとった選択は、今を重視するわけでもなく、未来を重視するわけでもなく、今と未来で痛みわけを行うことだった。

 『今』の痛みをそのまま受け入れ、それを『未来』へと先延ばしにしない。

 その結果が、エピローグで描かれる自国通貨を失った日本である。

 冷静に考えたら、通貨を失うことは国家レベルで考えるとかなりの痛手だ。

 それでは公麿が行ったことは間違いだったのだろうか。

 いやそうではない。

 それは、11話で、謎の人物が公麿に対して語り掛ける。

 

何が正しくて、何が間違っているのか。ずいぶん迷っていたね。正解はない。みんな正しいんだ。みんなが世界をよくしようと戦って、そして世界はよりよくなった。(11話)

 

 このシーンはおそらく自由主義市場で存在している(と考えられていた)「神の見えざる手」による調整機能のことを言っているのだろう。

 額面通りにこの言葉を受け取れば、公麿が悩んだ末にだした答えも、壮一郎がとった行動も、宣野座の理想も、すべてが間違いではないということだ。事実、壮一郎は、ディールでの負けを認めた後も、こんな風に言い残している。

 

「未来で会おうよ」

「ごめんだね。俺は永遠に今日にとどまる」(11話)

 

 それもまた間違いではないのだ。

 それぞれの事情の中では最適解が様々に変化する。今回は公麿の選択が最良だっただけのことで、ほかの局面ではほかの考え方が最良となるかもしれない。

 今回は、日本全体を巻き込む決断だった。それだけの大規模な決断だと人それぞれの最適解は極端ではいけない。極端だと大きく損をしたり、得をしたりする偏りが出る。中庸をとることが最適解となる。だから、「他人のことを考える」ようになり、「今と未来を大切にする」公麿の決断が選ばれただけのことなのだ。

 公麿は、広く、多くの人のことを考えて、たくさんの未来を救った。その事実だけは今回の『C』において、正しく真実なのである。

 

 経済というと、今の時代は、その中身が資本主義や市場経済になるから、どうしたっておカネや価値の流れを連想してしまうが、実際はそうではない。資本主義や貨幣、市場は歴史上での発明品であり、そんなものがない時代だって当然あった。

 経済の本質を『経世済民』(世をおさめ、民をすくう)だと定義するならば、公麿が多数の未来を救うという結果に落ち着いたこのアニメは、まさしく経済アニメだといえるのだ。

 そういうわけで、僕は、このアニメのことを「経済をテーマにした人生哲学アニメ」だと主張するわけである。

 

補足

 

 未来について。これはわかりやすく子供である。Cや金融街のマイナス修正を受けるシーンで子供がよく消えるし、宣野座が重視するのは子供が描いた未来だという描写がある。

 子供に注意してみるとじつは総一郎も結構子供を見ている。未来を見てたりしたのか? とも思えるシーンがある。

 そして、未来を象徴するのが子供であるならば、宣野座が(ボランティアとして子供に配っている)カップラーメンを真朱にプレゼントしたのは理に適っている。

 しかし真朱=娘ということではたぶんない。親と子の望むものが同じだったからあの形のアセットとして登場したということ。父は公麿を金融街の影響から守るのに必死になったし、公麿が最終的に救った未来も子供だといい変えることができる。

 だから、真朱とムアは似ているのだ。

 公麿はアセットに恵まれたとは、作中で言われた通り。

 なぜそうなったのかは、公麿がアセットを大事にしたからだけど、これって『こんなかわいい女の子がアセットだったら誰でも大事にする』と思った。

 でもそれって、自分の未来をどれだけ魅力的に思えるかってことじゃないか?

 制作側にそういう意図はないだろうけど、そういう見方もできるという話。